たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

僕らは誰かの視線に映る、二次元世界に憧れる。

WEB拍手よりピックアップ。

lain大好きなたまごさんならノエインのキャラデザでも萌えられると信じていた

lain大好きなのを覚えていてくださったこと自体がうれしいのですが*1、確かにそれぞれ、一発でなにか異質なものを感じさせる絵柄が特徴だなあと感じました。今まで意識したことなかったですが、並べられると確かになさそうでありそうな共通点が気になります。
ノエイン もうひとりの君へ
lain
 
始まる前からノエインのハルカの絵に、恋する少年のようにときめいていました。最初「御先祖様万々歳!」みたいだなあ、とか思っていたんですがよく見るとぜんぜん違いました。
なんでしょう、「萌える」って言葉があっているのかどうか自分でもわからないんですが、スタジオ4℃の森本晃司さんや田中達之さんの絵に昔から溺れていて、そういう「ジャパニメーション」とくくられていた作品たち全体がじたばたするくらい好きでした。今となってはジャパニメーションって言葉もあんまり使わないですが、わかります、その時の外国の方の興奮の気持ちが。
ノエインの絵もそうですが、「ああ、世の中こんな風に見えている人がいるんだ」ということへの感動だったんだと思います。
だってね、見たことない形がその画面の中で動いているんだもの。
 

●わたしの目に見えるセカイ●

何回か書いた気がしますが自分は色弱です。
今は学校で検査とかしませんが、昔は毎年色覚検査をしたものです。もっともそれで差別とかはないし、自分も全く気にも留めたことないんですが、一つだけ気になることはありました。
いやね、学校で絵の具を使う授業になると、どの先生にも言われることがあったのですよ。
「結構よく描いていると思うけど、肌が緑っぽいねえ。」
それで傷つくことはなかったですが、賞をもらえなかった時は不思議でした。いやあ、先生は緑色っぽいっていうけれど、そんなに緑かなあ?むしろ赤すぎるんじゃない?
 
どうも赤緑色弱だったみたいです。
といってもそれがおかしいことだなんて微塵も疑ってなかったので、「絵が緑っぽい」といわれるたびに「そんなこといわれてもなあ」と言い続けていました。先生が「緑っぽい」と言っていたのも、決して非難じゃなくて、がんばって描いているのを認めてくれていたからゆえだと思います。いい先生なのよ。
とはいえ釈然としなかったある日読んだマンガで「ああ、いいのか」と納得させられたことがありました。
もう何の作品だったか覚えていませんが、セリフの中身だけは覚えています。
色弱の人は、他の人とは違う世界が見えているんだ、誇らしいことだ。」というような中身でした。
ああ、他の人に見えない色で見ているのかあ、自分ってちょっとお得じゃん、と。
 
とはいえそれを頭で再構築して自分の手段にするまでにはいたらなかったみたいです。
冷静に考えたら「セカイはこう見える」という基準値なんて存在しないわけで、10人いたら10人とも違う見え方をしているわけです。自分が見えていない世界を、他の人は見ているわけです。
なんとうらやましい。
 

●そこにあるモノ●


マンガ「ルー=ガルー 忌避すべき狼」より。
この作品も色々な見方で楽しめるのですが、一点「この作品ならでは」の面白いポイントがあります。
人間の存在がすべてネットワークで管理されている世界では、その人の存在もコンピューターをだませば「いる」「いない」を変えることすらできます。
現実社会でももう一部そういう部分はあります。データにないものは存在しない。
それでもまだ面と向かって話すことで一発で解決するわけですが、この作品ではそこすらも曖昧になります。
 
そもそも、見ている世界は個々それぞれ違います。
また、こどもの時に見えた世界と、今見ている世界は、明らかに認識している部分で差があります。ああ、こども時はすげー大きく見えたはずなのに、こんなに小さかったっけ?のような。
この作品では「形状認識異常」という名前を付されていますが、別にとりたてて異常なわけではないです。むしろその人から見たら、別の人の認識が異常かもしれません。
物語はそれを巻き込んで複雑化していくのですが、それはまた別のお話。
 
自分には見えないほかの人の視点がどう映るのか。
それが自分の見ている世界の感覚にピタっとはまったらそりゃあもう興奮の渦高まるし、自分の見ることが絶対ありえないような世界だったややはりそりゃあもう興奮の渦高まります。
人の目が見ている世界が、二次元のカタチに投射されることそのものが、興奮の材料なんだと思うのです。
 

●見られない世界と、見てみたい世界●

絵画にしろイラストにしろマンガにしろアニメにしろ、自分の見ることのできない世界が広がっているんだなあ、と感じるようになってから、楽しくて仕方なくなりました。
そういう意味では、海外の人が日本のアニメをはじめてみて「すげえ!」と興奮する気持ちと同じかもしれません。ああ、そういう風に見える世界があるんだ、というワクワク感。
「自分では見られない世界」です。人によっては、日本オタク文化の衝撃は、ヘンリー・ダーガーの絵を見たときの衝撃に似ているかもしれません。
 
「萌える」という言葉は本当に幅がやたら広くて、だからこそ使いやすくて便利なんですが、「ごちゃごちゃしたコード萌え」とか「ものすごい勢いで変形する機械萌え」とか「薄暗い路地萌え」属性が自分にあります。
九龍城砦とかものすごい萌えツボで、写真集とかいっぱい買いため、香港にも何度も行きました。が、今は九龍城砦はありません。あっても行けなかったと思います。怖いし。
だけど、どんどんイメージの中で膨らんで言って、見たい見たい見たいと念仏のように唱えているときにドドンと打ち出される日本のアニメ。アジアンゴシック、という言葉が適切かどうかわからないですが、ブレードランナーをさらにこじらせたような世界を見て興奮は最高潮に。
ベタですが、「AKIRA」「オネアミスの翼 王立宇宙軍」「攻殻機動隊」、そして森本晃司とケンイシイの「EXTRA」を見て失禁しそうになったものです。「AKIRA」は原作と違ってキモを抜かれたというのもありますが。
ゲームだと「クーロンズゲート」ははずせません。時代を先取りしすぎた作品でした。
こちらは、「見てみたい世界」です。いくら望んではいても自分で見ることのできない世界。
 
「見られない世界」と「見てみたい世界」、どちらも自力では見られないんだけれども、それが目の前に現れたときの楽しさが、人間の心を動かす原動力の一つなのかなあ、とぼんやり考えてました。
心理的な難しいことは知りません。ただひとつだけ。目で見たものに対して最初に受ける「興奮」は、一生忘れられないものなんだろうなあ。
 
ルー=ガルー 忌避すべき狼 (1)(リュウコミックス) ルー=ガルー ―忌避すべき狼 (2) (リュウコミックス)
あれ、表紙絵がない。ルー・ガルーは最初絵柄がずいぶん今風なので「コミックリュウにしては珍しいなあ」とか思っていましたが、通してみると、なるほど、これは20世紀アニメイズムだ。間違いなく徳間だ。
ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
関連・ヘンリー・ダーガーのファリック・ガールズ(pentaxx備忘録)
話を膨らませすぎた気がしますが、どうしてもメモしておきたかったのでこれも。なんだかんだでいつ見ても衝撃が大きすぎるヘンリー・ダーガー。この視線は絶対自分では見ることができないほど純粋さにあふれているんですが、憧れていいのかどうなのか困惑させられます。
 
〜オマケ〜
STUDIO4℃
登録性の「beyond city」、最高に面白かったです。というのももうだいぶ前の話。今はどうなっているのか見ていないのでわからないですが、とにかく山のようなギミックだらけ。
ごちゃごちゃした街大好き。

*1:今まできちんとした記事に書いたことないハズ。