たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

ガールミーツガールとしての「マイマイ新子と千年の魔法」

あかんて。
マイマイ新子」の事があまりにも頭から離れなくて、まるで病気です。ちょっと頭おかしくなってると思う。どっかスイッチ入っちゃってる。
あんまりにも寝ても覚めてもそのことばっかりしか考えられなくて困った、と言ったら知人に「それは恋だね…」と言われました。
うん、こりゃ恋です。
とりあえず今のままだと他の物を観る視野が狭まりそうなくらいの魅了されっぷりなので、先回のと一旦別の感想を書きまとめて、頭を切り換えようと思います。*1それでも好きならもう身をゆだねる勢いで。とりあえず冬コミの原稿終わったらもう一回見に行くんだ。
 
マイマイ新子」自体はとても文学的な趣すらある、行間を読ませるタイプの作品です。だからこそ後から色々な部分で「なるほど」とじわじわきます。同時にものすごく感覚的な部分に訴えてくる演出のされている作品なので、妙な感動でわけもわからず頭がシェイクされる作品でもあります。
んで、個人的にはもっと表面の部分、女の子と女の子が出会うという点がツボなわけですよ。
ちょっと今回は余り難しいことを考えず、この映画をガールミーツガールな作品として楽しんでみようと思います。
先に。この作品は「百合」かと言われると、うーん、それはタカハシマコ先生の言葉を借りるならば「この感情は百合だ、と思ったら百合」かなと。自分はプリキュア電脳コイルのような深い友情とお互いの距離を描いた作品を百合だと思っている思考で、この作品も百合だと判断しました。
 

●本当に「掛け値」がない出会い●

どうしても雰囲気的に「都会から来た貴伊子を、田舎の新子が救う話」みたいに見えちゃうんですが、二人の関係ってそういう助けてあげるとかっていう「何かしてあげる」じゃないんですよ。人間関係ってそんなに簡単にAからBっていうベクトル引けない。お互いが色々考えながら感情を交わし合うもの。
確かに結果として、クラスに馴染めなかった貴伊子が新子によって馴染むことになりますが、最初新子が貴伊子に声かけたのって別に「貴伊子を助けてあげよう」としたわけではありません。むしろ台詞だけ聞くと、貴伊子に「なんでなの?」と問い詰めるかのようでした。
ものっそい不器用じゃあないですか。「なんで?」と聞かれたってなんでかなんて分かるわけないし、新子だって貴伊子を本当に問い詰めたいわけじゃないです。ただ、なんとなく近づきたかったんです。
新子のたどたどしさは、最初貴伊子にどう近寄ればいいか戸惑うことからも分かります。後ろを着いては行く物の何も言えなかったりしちゃうんです。クラス内では男女問わずおおらかな性格で比較的好かれている新子でも、やっぱり貴伊子の最初の違和感にはどうすればいいか分からないんですよ。
 
女の子が女の子に出会う時「異性に会うより近い」がゆえに、逆に遠くなったりします。
どこまで手を伸ばしていいのか分からない。どこまで心を許していいのか分からない。ある面同じ部分が多いが故に、逆にお互いの間に違和感が出来たとき、手の施しようがないくらい何も言えなくなることもある。
近づいたり離れたりしながら、その距離をはかったり悩んだりしっぱなしです。
 
二人はすぐ仲良くはなりますが、やっぱりお互い未知との遭遇なんです。ファーストコンタクトはお互いどうすればいいか困惑するんです。
加えて、何か事件が起きたときに対処しきれず、一気に距離が開くこともあります。がんばってまた仲良くなりたいのに、うまくいかない。踏み込みきれない部分が残っていてぎこちない。お互いに。
この物語は、そんな二人が近づいたり離れたりしながらお互いの距離感を知ろうと悩み苦しむ物語でもあると思うのです。
 
なーんてことのないように思える事だって、彼女たちにしてみたら一大事。少女同士の距離が密着したり離れたり。宙ぶらりんで不安定な状態は、新子と貴伊子の間にもありました。本当についつい笑ってしまいそうな幼さではあるんですが、幼いなりに必死に考えて必死に動こうとがんばるのが、いいんだなあ。
そもそも相手に対しての距離感が不安定だってことは、お互いそれだけ隠さず嘘をつかず「好き」だということじゃないですか。何かの利を求めた掛け値で働いたり、どちがら上下というのは一切ありません。
子供だしね、と言いたくなりますが、いや、「子供=純粋」ではない。
子供は一生懸命がんばることで純粋を貫こうとしているんです。
 

●二人は手を繋いで●

新子と貴伊子、二人はものすごくしっかりと手を繋ぎます。
ちゃんと、指と指絡めた通称「恋人つなぎ」で、手を繋ぎます。しっかりと。絶対離しません。走ったって手を離しません。
もう…自分は…女の子同士が手を繋いでいるのを見るだけで泣いてしまいます。なんでだよ。知らんよ。
 
女の子同士の関係を描く場合、手の描写が丁寧にしてあるかどうかがものっすごい重要です。
男の子は心がつながっていれば身体的な距離感はまあ別に、というところありますが、女の子同士を描写する上での身体の位置関係は、心理そのものを描くことになります。

何度も引き合いに出しているこのシーンが、この作品の空気感そのもののように思っています。
何を話し合うわけでもない。ただ側に寄り添って、目があったときにニコニコと笑える。頬と頬を寄せ合って、お互いの存在を感じながら一緒にいられる。この瞬間がたまらなく愛おしくてたまらない。
 
ぴったり密着することも多いですが、やはり端的にその関係が出るのは、つないだ手です。
特に後半の手つなぎはかなり心理状態とあわせて意図的に描写されていたと思うので、もう一度確認してみたいところ。
目に見えて感じられるものだけが「すべて」ではないけれど、その手で触れた体温のもつ相手の存在感は何物にも代えられない宝物だと思うのです。
 

●その脚で駆けていく●

自分がこの映画を見に行く動機になったのは、脚でした。
ほんと、脚の描写がものっすごい手が込んでいるんです。こりゃ少女脚フェチとしては見逃すわけにいかないよ…。不純な動機でごめんなさい。でもまじほんと。
 
新子も貴伊子も、脚ものっすごい細いです。
貴伊子はまあ、あんまり動く子じゃないので、白い肌に華奢な骨格、そこに筋肉がたるんとついている感じで描かれるのはよく分かります。ふにゃふにゃなんですよ。「電脳コイル」のヤサコみたいな脚です。
新子はものすごくよく動く子だけど、びっくりするほど細いです。カモシカの脚、と例えるならば、さらにそこから半分くらいに削った感じ。一応動く筋肉としてはついているんですが、それでもやっぱり鍛えられた脚ではないんです。
時代的背景を考えるとたしかに昭和30年代であればそれほど栄養過多なわけでもないですし、このくらいほそっこくなるだろうなあというのは感じました。
しかしこの脚って彼女の性格や考え方の表象、という気がします。元気に活発に動き回るけども、貴伊子同様やっぱりちょっとしたことで脆く困惑してしまう。決して一人で何もかもどうこうできるほどたくましくはない。それでも一歩だけ踏み出そうとする、か弱くて力強い、そんな脚です。映画のラストでちょっとだけびっくりする脚の説明もありますし。
 
この作品は夏の一瞬を描いた作品です。

そのため上のカットのように、基本的に彼女たち脚をのびやかに見せています。また比較的アングルが低いカットが多いので、余すところ無く二人の脚が大地を踏みしめ駆け回るのを見ることが出来ます。
新子のみならずこの地域の子は基本裸足。貴伊子は靴下とクツを履いています。これってそのまま、自分達の感情をさらけ出しているかどうかの具現化みたいなところもあります。
そんな彼女が、途中初めて裸足になるシーンがあります。おそらくこの時、はじめて新子と貴伊子の関係が一段階進んだんじゃないかと自分は勝手に思っています。
 
女の子同士を描く際、脚の描写ってものすごい重要な役目を担うことがあります。手の次は脚かよ!と言われそうですがそうです。脚です。
女の子たちの距離感において、触れる役目を果たすのは手だとしたら、位置関係を近づけたり遠ざけたりするのは脚の役目です。のびやかで、しなやかな脚が描かれている作品ほど、女の子同士の距離感は一気に縮まることがあります。走って相手のところまで行けることを表しているからです。
新子は文字通り、全力で息切らしながら貴伊子の所に近寄っていきます。貴伊子は普段それほど走りませんが、新子のところにだけは全力で走っていける脚を持っているのです。
ああ、なんて美しい脚じゃないか。
 
膝小僧も真っ赤ですが、足の甲もまた真っ赤。
丁寧に繊細に描かれた足の描写が、新子と貴伊子の関係に彩りを添えます。
WEBアニメスタイル | 【artwork】『マイマイ新子と千年の魔法』特別編 原撮・動撮(4)
そう、ここにも書かれていますが、じゃれあっている少女達の姿がとてもエロティックでキレイなんです。泣けてくるほどに。
 

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近づいたり離れたり。そしてぎゅっと手を握ったり。
二人は、1000年前の少女がもう一人の少女に「遊ぼうよ」と語りかけることで近づこうとする姿とシンクロしながら、自分達の距離を必死に探ります。(この「遊ぼうよ」のセリフのイントネーションがまた、ステキなんだ!)
はて、新子の積極的に動ける姿勢もとてもいいんですが、貴伊子がね、ものすごくいいんですよ。
いわば歩けるようになったクララが、ハイジのところに自分から駆け寄れるかどうかという話ですよ。手を繋いでくれていた、という関係を超えて、自分から手を伸ばしてその手を握りしめようとするかどうかという話ですよ。
自分は子供時代は町っ子だったのもあって、すっかり貴伊子の方に見入ってしまいました。新子に手を引かれて田舎を楽しむのもそれは幸せいっぱいなんですが、自分から手を握りしめる人間関係に慣れていなくて、ちょっとしたことでどうすればいいか分からなくなっちゃうんですよ。
でも好きだから、一緒にいたいんです。側にいたいんです。なら自分でなんとかするしかないじゃない!
もちろん、何かすごいことができるわけじゃない。大人の都合に翻弄されたら二人ともどうしようもない。
けれども、少女達なりに一生懸命がんばって、手を繋ぐことはできるんじゃないかな。
裸足で駆け寄ることはできるんじゃないかな。
 

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だいなしな話で申し訳ないんですが、ロリコン的にときめいたのは実は諾子だったりします。むちゃくちゃ行動とか声がかわいいのよ…。路線的には「紅」の紫だと思う。二人の少女が想像した「昔いたかわいい女の子のお姫様」という加点があっての描写だからだとは思いますが、あのかわいさはちょっとすごい。
ものすごく色々な感情が噴き出して、見ているこっちがパニックにさせられるようなカット詰め合わせな作品なので、気づいたらわけ分からず泣いているくらいのことしか出来なかったのですが、とりあえず当初の「脚を見たい」という目的は120点果たされたと断言出来ます。一日中見ていたいとすら思いました。脚を。
自分の様々な感覚を刺激されつつ、少女達が駆け回るのびやかな姿を目の前に突きつけられたら、そりゃあ…一日中頭いっぱいになるなあとちょっと思いました。自分はこの作品に、大地に生きる人間の姿を見つつ、少女像の一つの究極形も勝手に投影して見ているんだと思います。
 
関連・「マイマイ新子と千年の魔法」を迷わず見に行ってほしいんですよ!!!! - たまごまごごはん

*1:ほんとはネタバレになりそうなあたりの話をいっぱいしたいんだけども…!