たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

あの時きらめいていた光はどこまでもどこまでも眩しくて。「劇場版けいおん!」感想その1


けいおん!」映画版見たよー。
いやーよかったですね。
唯のシャツな!
なんでロンドンなのに「パリ」なんだよ・・・。わざとか、わざとなのか。
でも憂の仕業かと思ったらちょっとニヤける。
 
さて、実際に映画を全部見ての一番の感想は「1クール見たなあ」でした。
長いんですよ。良い意味で。
実際は110分。長くないです。ところが見ていると、一瞬一瞬が永遠に思えるくらいなので、カットが流れていくのが早い分、ボリュームがすさまじく多く感じられて、長く感じるんです。つまらないんじゃない、楽しい長さって不思議。
確かに20話見た時も、永遠にあのままなんじゃないかとすら思ったものなあ。
まあ、これは感覚的な感想です。当然個人差はあります。それもTV版全部見ていること前提。見ていなかったら面白さは半減以下かもしれませんが、見ていたら「あれも!」「これも!」で、トッピング全増し状態です。画面からの情報量は尋常じゃなく多いです。
 
で、終わった後「感動した!」「泣けた!」と言えればいいんですが、ちっがうんだよ。ぼくのなかでは。ちっがうんだよ。
じゃなくてもっとこう、モヤモヤーっとしていたんですよ。
「眩しい」が一番近いかもしれません。
あれです、空気に当てられたというか。酔ったと言うか。
そして、一番最初に頭に浮かんだのが映画「エコール」でした。
ちょっとその「少女の時代」の話と、二番目の主人公であろうさわ子の話を書きたいと思います。
 
 
 
 

●ロンドン≠部室●

一緒に見た友人と一番最初に言ったのは「これロンドンメインじゃなくね?!」でした。
映画の告知はロンドン旅行メインになっているので、なるほどみんなでロンドンに行くのが大部分なんだねー、と思ったわけです。
ところが見てみると、ロンドン部分確かにあるけどそこまで多くない。
むしろロンドンシーンは学校生活の引き立て役だった
 
当然、どこにいっても、何をしても「楽しい!」に変換できる彼女たちです。
「できる」だと語弊ありますね。「楽しい!」を作ろうとしつづけています。
今回は特に唯とムギ。律は二人の意見を聞いてスイッチを押す係。テンパッてハイテンションお上りさんがかわいいのが澪で、梓は割りとそれどころじゃない。卒業していく唯たちに不安を抱いているのをずっと引きずっている。
なんだかんだでロンドン旅行自体もすっごい楽しんでいるんです。
でも本当の主軸は梓のために歌を作る(最終回の「天使にふれたよ!」)で、ロンドン旅行はそこにいたるまでの感情の起伏の表現に思えました。あとは映画のための特別感。
 
上のメインビジュアルにもありますが、ロンドンのシーン、すっごい広いんですよ。
けいおん!」は割りと壁から目線が多くて、それほど「広がっている」という感覚をもたせません。
むしろ部室の中の小じんまり感の心地よさ、その空間の中で楽しさを発見できる、絆の中の「広がり」の描写が強いです。
なのでロンドンでのシーンのカメラワークや、空間の広がり、空の描き方がかなり意図的にでっかくされています。
見ていると、絆の中の「広がり」が風船みたいに膨らみすぎて訳がわからない状態に飲み込まれていきました。
旅行にいくとテンパって「フワーッ」ってなるあの感覚そのものです。
 

個人的に好きなのはココ。ロンドン市内のシーンはカメラワークでぐいぐい動くんですが、部室を飛び出して海外に行ったという浮遊感を体感する瞬間を、飛行機の窓からの画面で描いています。
実際唯達は「フワーッ」ってなっていたと思います。
特に唯が「ワールドワイド」って何度も言うんですが、実際ワールドワイドですよ。さくっと卒業旅行にロンドンて・・・!
(ちなみに余談ですが、「そんなロンドンに簡単に行けるほどの富裕層か!」というよりは、この子たちのお父さんお母さんは「まあうちの子ならそろそろこの時期はどこか行くだろうし、体験させたい・行かせたい」と薄々感じていたんじゃないかと邪推。まあムギの家はともかく、唯の家はさくっと夫婦で海外行っちゃうくらい。)
描かれる背景がめちゃくちゃ綺麗な上に、カメラが唯達の視線と同じように流れるので、町そのものの中を通っているように描かれています。
 
なのにですよ。
なぜか部室の延長線上なんですよ、ロンドン。
ロンドンっぽいものほとんど食ってません、少なくともお店の中では。入るのが寿司屋だし。食えないし。
アフタヌーンティーは予約してなくて入れないし。機内食も和食と洋食だし。
食に関しては日本の延長線+αでちょっとくらい。この時点ですごい日本っぷり。
加えて、ロンドンで友人にあっちゃうあたり、偶然というか、もうこの子たち運を引き寄せてる気がします。
 
あの言葉が思い出されます。
放課後ティータイムは、永遠に放課後です!」
ロンドンに来ても放課後なんだよ、彼女らは。
なぜなのか。食だけじゃない。
見ているのが景色じゃなくて、仲間だから、だとぼくは思いました。
 

●「とどまる」美しい瞬間、「通りすぎる」美しい瞬間●

ぼくがモヤモヤしていた一つは、ロンドンのシーンはあくまでも学校のシーンのクライマックスの一つに過ぎないということです。
実際映画のクライマックスはロンドンの演奏シーンじゃない。
ロンドンの二回の演奏 < 教室のクラスでの演奏 < 梓への演奏
これなんだよ、ここなんだよ。
どう考えても海外での、一般客相手の方が「すごい」のに、彼女たちにとっての「すごい」は梓の前での、最終回の「天使にふれたよ!」なんですよ。ここで脳みそぐわーっと持って行かれたんです。
 
まあ実際の大人視点の話はその2の方で書くとします。(さわ子中心に)
それよりも見たいのはこの5人です。
旅行に行く前に「梓に何をあげよう」から始まり、そこからがまず長い。
旅行から帰ってきて、学級でライブして、そこから最後の梓への歌までがまた上り詰めていく。
ロンドンに行ったのは「私たちの「楽しい」は、客観的な価値じゃない」という再認識のようにすら感じられるくらい、ようするにみんなが一緒にいるのが一晩楽しいわけですよ。
そのつながりの絆が、という形で現れるんだなと。形にするのは大事。

前半は「けいおん!」らしいいつもの世界を映画で初めて見る人たちにもわかってもらって、それから旅行に行った方が良いと思ったものですから。彼女たちが部室でうだうだ過ごしている時間が少しでも伝わらないと、ラストの彼女たちの気持ちを伝えられないですし。
(パンフレット、吉田玲子インタビューより)

カットしたとこは台本に赤線で書き込んで消したんですが、この赤は血の赤だ……と。「けいおん!」のキャラクターは一見いらないことばかりをしているよう見えるんですが、その行動の中にいらないことなんて一つもないんですよね。
(パンフレット、山田尚子インタビューより)

本当に最初はぐだぐだしてます。でも監督の言う「いらないことなんて一つもない」はまさにそのとおり。
いや、大人の価値観的には「いらないこと」に見えるかもしれませんが、彼女たちが手探りで楽しさを求め、絆を求めているという流れにおいて「いらないこと」は一つも本当にないし、AがあるからBがある、の連鎖になっている。
このへんはTV版全部見ている人程感じるかもしれません。最初の役に立たない日々は、実は後半の彼女たちの感動につながる、そこまでを通してみる事で感じるものがある。
 
だから、彼女たちが「部室でだらだらしている」のも、「ロンドンに行く」のも、「演奏をしている」のも、全部同じ。
彼女たちは一瞬一瞬を全力で楽しんでいます。
かみしめてはいません。かみしめるのはあとでいいよ。効率とかもあとでいい。
ただひたすらに、楽しむためのことを考えています。
もちろん、言うまでもなく「楽しい」というのは自分が、ではなく「みんなが」。
 
ああ、そうか。
「眩しい」と感じたのは彼女たちが一瞬一瞬を永遠に感じているからなんだなあ。
 
問題になってくるのは、ラストシーンです。

このシーン。非常に巧みなシーンで、脚だけで全てを物語っています。
声優さんの演技の効果もあるんですが、わかるんですよ。不思議と。
で、ここに梓がいないことも忘れてはいけない。
 
このシーンって、原作4コマのラストに当たる部分です。
高校生活を惜しんで泣いていられない、大学に行くんだから楽しまなきゃ!というシーンです。
言い聞かせているわけじゃなくてもう全部本心。通過していくことを楽しんでいるんです。
最終回で「なぜクラスの誰も泣かなかったか、梓とさわ子だけが泣くのか」の演出にも通じると思います。
 
彼女たちは一瞬一瞬を、楽しんでいる。
それはもう眩しいほどに。キラキラと。
 
彼女たちは通過して育っていくことも、楽しんでいる。
それはもう、まばゆいほどに。キラッキラに。
 
「永遠に放課後」は2つの意味があると思います。
一つは「この作品を見たらいつでも高校生時代の楽しい瞬間に戻れる」というもの。
追体験というよりも、「望んでいる世界」に近いかな、とぼくは思います。ただ追体験している人も当然いると思います。
もう一つは「彼女たちはどこまで行ってもこのまま楽しみ続けるよ」というもの。
上の歩いているシーンで、原作にないセリフが挟まれています。
梓が卒業するときに、一緒に卒業旅行にいこう、というもの。
ありえない発想ですよ。
 
でもこれを唯が言うとニュアンスが変わってきます。未来のことを考えてどうこう計算するんじゃなくて、「今の楽しい」がなにより最高で、杞憂をしない。希望を持つというよりも、今を全力で楽しんでいるだけ。
未来になったら「未来の今」を全力で楽しむ。
このへんは意図的に映画にも組み込まれています。移動や電話のシーンです。
時差があるということは、過去に行くんだ。未来に行くんだ。
未来からの言葉が届くんだ。
時間軸を考えての「成長」を全く意識していません。その瞬間ごとに何もかもを楽しいととらえて燦々と輝いている。
でも成長はする。成長をしたらそれはその時に楽しむ。
ここはアニメ一話では絶対見られなかったとこですね。一期は「未来をどう楽しむか、居場所を見つけられるか、絆を作るところまでたどりつけるか」がメインだったのに対し、二期が「過ぎていく今を楽しむ」に特化されていたからこそ、映画版では彼女たちはただひたすらに輝けます。
映画版だけ見ても、楽しいとは思います。
けれど一期・二期と見てきた人のための、一番輝いている彼女たちが今回の映画版なんだよなあ。
瞬間の輝き、通り抜けていく輝き、両方がまばゆいんだもん。
 

●楽園●

ちょっと話ずれます。
今回出てきたキャラの中でキモになっているのが、オカ研の二人だと思っているんです。勝手に。
いや、モブほぼ全員会話があるとか、最高すぎるんだけどね!
ただこれはおまけ要素じゃなくて、特にオカ研は重要だと感じたんです。
なぜかというと、二人がクスクス笑いをしているからです。
 
「クスクス笑い」は少女達にしかない特別なものだと思います。
いや、大人や少年もするけど、少女に圧倒的に多い。
「クスクス笑い」をするということは、その子達にしか分からない世界での楽しみがあるということ。
けいおん部には当然それがあることが描かれ続けています。その場所に憧れていた少女がいたことも忘れてはいけない。
ね、アキヨさん。君が出ていてよかった。
で、オカ研の子達は基本ギャグ要員ですが、彼女たちにもこの3年間で青春があったんです。
絆になっていたのは、音楽ではなくオカルト。「ネッシー」ネタでくすくす笑えるのは、あの二人に絆があるから。それが絆で、それを「楽しい」と感じていたから。
唯にはわかりません。でもそれでいいんです。あの二人の「楽しい」は、あのふたりだけの特別なものなんだもの。
 
ここで、最初に述べた「エコール」を思い出します。
先に断っておくと、話の内容やニュアンスはぜんっぜん別ですが。
一番やはり重なってくるのはここなんですよね。

これはエンディングの通常版ジャケット。
最初見た瞬間ぎょっとしたんですが、本当に本編のエンディングでもこれが使われていて仰天しました。
脳みそすっとんだのはこれのせいです。
色使いやビジュアル、アンニュイだけど楽しそうなイメージが頭に焼き付きます。
エコール [DVD]
「エコール」は閉じた世界の「少女たちの美しさ」を描いた作品です。
映画版けいおん!と共通してるとはとても言えません。こっちは特殊中の特殊、美しい少女を見せるための世界を人為的に作った学校で育てる物語だからです。
けれども、「学校生活」という瞬間の美、少女たちがクスクス笑いながらつながっている瞬間の美は通じるものがあると感じました。
「エコール」は脚で心理を表現する描写すごい多いんですが、映画版はそこは似ています。
加えて「Singing!」ジャケやED動画で気になったのは、お互いの手をリボンで結んでいる点です。
絆なのか、それとも別の何かなのか。
 
最大のモヤモヤはここです。
ああそうか、ぼくは今「高校生活」「瞬間を楽しむ少女」を見ている側なのか。
そこに最高の幸福と美しさを発見してしまったのか。
正直、脚だけで「今」を、「未来の今の瞬間」を語り合う彼女たちが輝き過ぎていて、止まってしまえばいいのにとすら感じました。
けれども止まらないで駆け抜けて、次の瞬間、次の瞬間と微分しながら「楽しい」を掴んでいくからこそ眩しいのは、わかってる。
誰にも彼女たちは止められないんだ。
だから「永遠に放課後」なんだ。
 
「エコール」では少女たちはラスト、卒業的な感じで学校をでて、閉じた楽園から開いた世界で幸せを謳歌するという切り替えが入ります。
じゃあ「けいおん!」のエンディングはどうだったかというと、これが初回限定版の方。
Singing!(初回限定盤)
そこにいるのは、大人びた少女たち。
 
けいおん!」のEDは、あくまでも「デビューしたHTTが撮ったPV」という見方もできるので一概には言えません。
しかし閉じた楽園での幸せも、開けた世界での不安定な場所での絶唱も、どちらも「彼女たち」であることは間違いない。
これはもう一回見ないと何とも言えないなあ……。
 
けれども一つ、「けいおん!」と「エコール」のデジャヴュを感じながら気づいた点が一つ。
漫画版「けいおん!」がさくっと大学に行って「今」を楽しんでいるのに対し、アニメ版「けいおん!」が「高校生活」にこだわっている部分の差に関係があるのではないか、というところ。
そして、「けいおん!」というアニメが壁から目線が多く、彼女たちを見守リ続けているのはなぜなのか、というところです。
加えて、両方で彼女たちがあえて、演奏するときに制服になるのはなぜか、にも絡んでくると思います。
EDはザ・フーの「The Kids Are Alright」のネタも混じっているので、表情も含めて気になるカットだらけ。とにかくもう一度見たい、何度でも見たい。あの少女空間と閉じた楽園と、開いて飛び出していく世界はなんなんだ。あれが「けいおん!」のすごさなのか。
けいおん!」は「高校生イズベスト!」なのか、「いつまでも彼女たちは高校生の気持ちのままだよ」なのか。
そこの回答は、見る側に委ねられているからこそ、モヤモヤします。前者なら「東京少年」もふと思い出しましたが、あそこまでクローズドでもないんですよね。

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そんなわけで、泣いたり感動したりしている暇すらありませんでした。
今見ているこのアニメの中の彼女たちは、自ら楽しさを探し、つかみ、幸せに鳴り続けている。
それを見ている。
この関係が頭に押し寄せてきちゃって。あれ、ぼくは何を見ていたんだろうか。
偶像なの? 萌なの?
いいや。見たかったものとしかいえない。「美」というと大げさだけど、そう感じる人がいたら、それでいいとおもうし、少なくともぼくは感じました。
あんなに揺るがない、頑丈な「キラキラ」はそうそうお目にかかれない。彼女たちは、この物語は本当に繊細で、強い。
個人的には、映画版ではムギかなあ、特にそれを感じたのは。
あの子見てると勇気出るの。
あとは普段ふざけている律の、はにかみ笑い。あれも少女期の「キラキラ」の弾丸だなあ。
 
まあ、うるっと来なかったかというと、きたんです。
どこかというとさわ子パート。
もう一人の主人公さわ子についてはその2で。
さわ子から見た、もう一つの空「劇場版けいおん!」感想その2 - たまごまごごはん